正法眼蔵

正法眼蔵 弁道話③

kofukuji

諸佛如来、ともに妙法を単伝して、阿耨(あのく)菩提(ぼだい)を證するに、最上無為(むい)の妙術あり。これただほとけ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用(じじゅゆう)三昧(ざんまい)、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐(たんざ)参禅を正門(しょうもん)とせり。この法は、人人(にんにん)の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならんや。かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。

 

 この三昧に遊化・・・では、そんな他人と比較しない生き方をするにはどうすればいいのか。他人と比較しても幸せは得られないということがわかった私ですが、このわかったというのはあくまで頭で理解した、ということなのです。「わかっちゃいるけど、できない」これはよくあることなのですが、この「できない」をどうすれば「できる」にするか、ここではそれは、端坐参禅ですよ、つまり、背筋をまっすぐ伸ばしで坐禅することですよ、と言っているのですね。

 この法は、人人の・・・この法というのは、言葉にできない大切なこと(阿耨多羅三藐三菩提)は、人々にすでにたっぷりと備わっているというんですね。すでに備わっているんだけれども、実際に坐禅しないとそれは現われてこない。現われてこなければ得ることはできない、ということなのです。

 実際、ここがかなり難しく、大事なポイントです。わたしたちは、なにもしなくてもそのままでちゃんと全てがそろっている百点満点の仏さんなんだけれども、じゃあなにをやってもいいのかというと、そうではなくて、しゃんと、修行(坐禅)をしなくてはいけない。坐禅をすることで、ああ、自分は誰とも比較する必要がない、百点満点なんだな、と気づくことができる。もちろん、気付くといっても頭で気付く(理解する)ことではありません。

 はなてばてにみてり・・・そういうことに気付こう気付こうと追っかけているうちは、それは備わらない、そいういう想いを手放したときに、すべてが備わる。備わっている自分がそこにいる。多いとか少ないとか、そういう、比較する世界じゃありませんよと。

 かたればくちにみつ・・・「あっ」と言ったら、すべてが「あっ」になります。「あっ」で満たされて、「あっ」以外のなにもない。縦も横もない。これは発声だけでなく、なにかを聞くこともそうですね。古坂老師の講義でこんなことをおっしゃっていました。「(講義中に救急車が鳴っていて)外でピーポーピーポーと鳴っている。この、音が聞こえる、ということのすごさ、鳴ったと同時に聞こえている、このいのちというもの。」

 なにものとも比較しない、比較できない、今のこの瞬間をたしかに生きている、なんだかよくわからないが、たしかにここにある、このいのちというものに焦点をあてて生きる、そういう生き方ができたときというのが、いちばん安らかなんですね。

記事URLをコピーしました