正法眼蔵

正法眼蔵行持①

kofukuji

佛祖の大道、かならず無上の行持あり。道環して断ぜず、発心修行、菩提涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。このゆえに、みづからの強為にあらず、侘の強為にあらず、不染汚の行持なり。この行持の功徳、われを保任し、侘を保任す。その宗旨は、わが行持、すなはち十方の匝地漫天みなその功徳をこうぶる、侘もしらず、われもしらずといへども、しかあるなり。

正法眼蔵 行持(上)

佛祖の大道、かならず無上の行持あり。道環して断ぜず、発心修行、菩提涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。
一度修行のサイクルに入ると、まるいわっかのように充実した生(仏教者が求める幸せ)が隙間なく続いていくということ。このサイクルに入る生き方を行持(ぎょうじ)と呼ぶ。

このゆえに、みづからの強為にあらず、侘の強為にあらず、不染汚の行持なり。この行持の功徳、われを保任し、侘を保任す。
一度サイクルにはいったら、かってにぐるぐる循環するのだから、自分や他人のちからは必要がない。「われを保任し、侘を保任す」とは、基本的にわたしの行為と他人の行為は互いに影響を及ぼしあっていると仏教は考える。そうであるなら、このわたしが素晴らしくあるのであれば、よい影響を他人に与えるのは必然であろう。

その宗旨は、わが行持、すなはち十方の匝地漫天みなその功徳をこうぶる、侘もしらず、われもしらずといへども、しかあるなり。
こういう箇所が少し正法眼蔵や禅のわかりがたいというか、腑に落ちずらいところ。このわたしが仏法を行ずると、他人やすべてのものに利益(りやく)があるという。素直に読めば、たとえば今まさに、永平寺で仏法を行ずる修行者がいる。はて、わたしにどんな功徳があるのだろう。世界では戦争がやまない。戦火にいる人々に利益があるのかな?
筋が通る見方をするのであれば、内山興正さんが「一分の一の自己」と表現したが、つまるところ、わたしの世界を出たところに世界はないのだと仏教は考えていると思う。唯識に詳しいが、わたしが知覚しないものは存在しない。わたしの今ここ一瞬が十方匝地漫天なのだ。ゴキブリ嫌いがゴキブリをみたら飛び上がるが、ゴキブリ研究者にとって、興味の対象だ。わたしが仏になれば見るもの触れるものすべてが仏だ。

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