正法眼蔵行持⑦
kofukuji
足利 祥林山 高福寺
このゆえに諸佛諸祖の行持によりて、われらが行持見成し、われらが大道通達するなり。われらが行持によりて、諸佛の行持見成し、諸佛の大道通達するなり。われらが行持によりて、この道環の功徳あり。
諸佛諸祖の行持によりて、われらが行持見成し、われらが大道通達するなり。われらが行持によりて、諸佛の行持見成し、諸佛の大道通達するなり。
ここでは、諸仏とわれらと二つのものが表現されているが、実際はひとつのことを言っていると解釈してみたい。
諸仏とは、仏がこの身に現れたときの自分、われらとは、欲望に振り回されている凡夫の自分。同じ自分だけど、見る方向で呼び名が変わっている。
仏というとすぐに仏壇の中にいるような仏様を思い浮かべてしまうが、実際に生きたお釈迦さまだって仏だ。つまり自分自身が仏になれるということ。どういうときが仏になっているときか。それは、今この一瞬をたしかに生きているときだ。
諸仏のときの自分が凡夫の自分を感化していくときもあれば、凡夫の自分が頑張って発心するときもある。
われらが行持によりて、この道環の功徳あり。
行持の功徳が巡ってゆくといっても、井戸の呼び水のように、最初はこのわたし自身の発心が必要だということだろう。
※この正法眼蔵考察記は、毎週日曜朝8時に更新予定