お布施について
kofukuji
みなさまから時より質問いただく「お布施」について、相田みつをさんが生前発行されていた円融便りの文章(先代哲應和尚の言葉)を紹介いたします。
あのね、例えば、一万円出そうと思う、
円融便り 三輪空寂(昭和52.3.10号)より
しかし、よく考えてみると、どうも少し出しすぎるような気がして惜しい。
そしたらね、九千円、八千円、七千円、と惜しいと思う分を減らしてみるんだな、
そしてね、五千円にしたら惜しい気持ちがなくなった、
その時、その五千円をサッと出せばいい。
つまり、気持ちよく出すこと。
それを喜捨という、喜捨とは、喜んで捨てる、と書く。
捨てるんだから執着がない、執着がないから浄らかな財で、浄財という。
惜しい、とか、出し過ぎた、なんて、人間の執着がないんだな、
だから布施は、いつでも浄財でなければいけない。
いくら沢山だしたって「私は、こんなに出した、それなのに・・・」
なんていう思いがあれば、それは浄財とは言えない。
その反対にね、五千円ならば惜しいと思わないんだが、
隣の誰さんは一万出すそうだ、それじゃ私も負けず一万円にしよう、と思う。
それは無理だな、無理はしなくていい、無理は長つづきしない。
要するに、惜しいと思わない範囲で、できるだけ精一杯のものをサラリと出すこと。無理もダメ、ケチもダメ、共に執着がつくから。
三輪空寂とは、「与える人、与えるもの、受ける人」の三つがなんのわだかまりもないことを言います。つまりこの場合、受けとる側の修行でもあるということですね。受けとる側が「なんだ、これっぽちか」なんて思っていたら、三輪空寂はとたんに成立しなくなり、布施が布施でなくなってしまうのです。
「お気持ちで」というのはなかなか戸惑うものではあると思いますが、お布施の額を決める際の参考としていただければ幸いです。