正法眼蔵

正法眼蔵行持④

kofukuji

過去、現在、未来の行持によりて、過去、現在、未来の諸仏は現成するなり。その行持の功徳、ときにかくれず、かるがゆえに、発心修行す。その功徳、ときにあらわれず、かるがゆえに、見聞覚知せず、あらはれざれども、かくれずと参学すべし。隠顕存没に染汚せられざるがゆえに。

過去、現在、未来の行持によりて、過去、現在、未来の諸仏は現成するなり。

それはそう。過去に仏だったからといって、いま仏であるわけがない。いまの仏はいましかありえない。時間が存在すると思っていると、ひっかかってしまう。物理学によると、高いところの方が時間が進むのが早いらしい。

その行持の功徳、ときにかくれず、かるがゆえに、発心修行す。その功徳、ときにあらわれず、かるがゆえに、見聞覚知せず

面倒な坐禅ができるのは、功徳が現れていると言ってよい。発心修行だ。一方で、なんの苦も無く坐禅ができるときがある。功徳が現れずだ。菩提涅槃だ。「ときに」とあるように、仏であるわたしと、凡夫であるわたしは常に入れ代わり立ち代わり循環している。だから修証一等だ。

あらはれざれども、かくれずと参学すべし。隠顕存没に染汚せられざるがゆえに。

仏法の在り方というのは、わかるわからない、目に見える見えないということとは全く関係がない。もっと自分の手の届かないところで、仏法の働きは作用している。これは理屈ではない。なぜかそういうハタラキがある。今まさにこのわたしが書いている正法眼蔵行持の解説をあなたに読ませているその事実こそが、まさにそれだ。

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