正法眼蔵 弁道話①
kofukuji
足利 祥林山 高福寺
かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり。行持のいまは、自己の本有元性にあらず、行持のいまは、自己に去来出入するにあらず。いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、行持現成するをいまといふ。
かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり。
「行持」という言葉を説明するために、行持という言葉を使っている。これは一般的には説明になっていない。女性というのは女性的な生き物だと言っているのと同じだ。ではなぜ道元禅師が行持を行持で説明しているかというと、これは時間・空間を飛び越えたものだということを意味している。
正当恁麼時という言葉があるが、岸沢老師はこのように言っている。「「いま」にはずれたときがなければ、どんなときでも仏祖の行持でないときはない」
つまり、「いま」に外れない生き方が行持であり、いまそのいまに外れない生き方ができたとき、それを行持と呼ぶということだ。
行持のいまは、自己の本有元性にあらず、行持のいまは、自己に去来出入するにあらず。いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、行持現成するをいまといふ。
それはもともと自分に備わっているとか、出たり入ったりするものではない。本当にこの瞬間をしっかりと目覚めて生きているときは「いま」と言うのだ。だからだいたいの人は、いまではなく、過去やあさってを生きてるということにもなる。
急げ急げといって、鍵をかけたかどうかわからなくなっているのがいい証拠だ。