正法眼蔵

正法眼蔵 弁道話①

kofukuji

 今日から、参学参究のため、正法眼蔵の解説をここに記していきたいと思います。古来より、難解と言われている正法眼蔵ですが、ひとつひとつ紐解いていくと、おぼろげながらも、みえてくるものがあり、ひとたびきっかけがあれば、スルスルと心に入ってくる、そして、なんだか言いようのない、しかし、確信に満ちた、爽快な風を送り込んでくれる、そのようなものが正法眼蔵なのではないかなと感じております。なるべく平易に書こうと思いますので、お時間がある時に、よろしければ、お付き合いください。

諸佛如来、ともに妙法を単伝して、阿耨(あのく)菩提(ぼだい)を證するに、最上無為(むい)の妙術あり。これただ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用(じじゅゆう)三昧(ざんまい)、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐(たんざ)参禅を正門(しょうもん)とせり。この法は、人人(にんにん)の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならんや。かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。

 まず、「諸佛如来」は、いろいろな仏さんという意味です。昔は、仏を佛と表記したそうです。「如来」もここでは、仏さんという意味でいいでしょう。「妙」という字が二回出てきますが、この妙は、普段「妙だな」などと使うように、なんか変だな、という意味ではなく、ここでは、言葉にできない、というふうにとらえていただければと思います。

 そして、次に、阿耨菩提という難しい言葉が出てきましたが、これは、阿耨多羅三藐三(あのくたらさんみゃくさん)菩提(ぼだい)を略したもので、もともとは、アヌッタラ・サムヤク・サンボーディ(anuttara-samyak-sambodhi)というサンスクリット語があり、それを音写したものです。McDonaldをマクドナルドとしているようなものですね。

 なので、阿耨多羅三藐三菩提を原語の文法とおりに分割すると、阿耨多羅-三藐-三菩提、となり、阿耨菩提という略し方は、原語からしたらずいぶん変なところでつながってしまっているわけですね。

 余談ですが、anuttara-samyak-sambodhiのan-は否定を表しているそうで、uttara(より上の)と合わせて、より上が無い、つまり、無上という言葉になります。そして、samyakは正しい、sambodhiは等正覚という意味であり、これを合わせて、無上正等正覚となります。この上ない真実の覚りということです。このようにインドの言葉を音写したり、日本語に訳したりしているものが一つの文章がたくさん出てくるのが、仏教を難しく感じさせている一つの要因かもしれませんね。

 先に、妙のことを言葉にできない、といいましたが、仏教が目指すところが言葉にできないものであったりするので、言葉にできないだけに、それをなんとか言い表そうと、いろいろな言葉が使用されます。その一つが阿耨多羅三藐三菩提です。その言葉にできない大切なこと(阿耨菩提)に気付く(證する)ために、いちばんよい方法があるよ(最上無為の妙術)といっているのですね。

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