正法眼蔵

正法眼蔵行持⑦

kofukuji

しかあればすなはち、一日の行持、これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。この行持に諸仏見成せられ、行持せらるるを、行持せざるは、諸仏をいとひ、諸仏を供養せず、行持をいとひ、諸仏と同生同死せず、同学同参せざるなり。

しかあればすなはち、一日の行持、これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。

諸仏の種子というと、仏になるための小さな種が備わってて、その種から目がでて仏という花が咲くというようなことになる。しかし、本有元住にあらずなのだから、そういった種のようなものはないように思うが、この行持という時空を飛び越えた生き方に照らし合わせれば、つまり、種があることと、目がでること、そして花が咲くことが同時に起こるということだ。

発心修行菩提涅槃、区別はあるが、それぞれが同時に起こる一方で、ぐるぐる循環しているという側面もある。発心という種が蒔かれたと同時に、仏という花が咲く。

この行持に諸仏見成せられ、行持せらるるを、行持せざるは、諸仏をいとひ、諸仏を供養せず、行持をいとひ、諸仏と同生同死せず、同学同参せざるなり。

諸仏=行持なので、行持という今ここの生き方を選ばないということは、それは諸仏を遠ざけているということだ。諸仏というのは、行持見成しているこの自分だ。行持が現れているとき、諸仏がわたしでわたしが諸仏なのだから、同生同死だ。同学同参だ。

記事URLをコピーしました