正法眼蔵

正法眼蔵 弁道話②

kofukuji

諸佛如来、ともに妙法を単伝して、阿耨(あのく)菩提(ぼだい)を證するに、最上無為(むい)の妙術あり。これただほとけ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用(じじゅゆう)三昧(ざんまい)、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐(たんざ)参禅を正門(しょうもん)とせり。この法は、人人(にんにん)の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならんや。かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。

 これただほとけ佛にさづけて・・・この言葉にできない方法がほとけさんからほとけさんへ代々まっすぐに伝えられてきた、ということです。仏教というのは、師匠から弟子へ受け継がれてゆくものです。なにを受け継ぐかというと、言葉にできない妙法を受け継ぐわけですから、ときには曲がって(よこしま)伝わってしまうこともあるわけですね。2500年かけてインド、中央アジア、中国、朝鮮、そして、日本と、これだけ時間と言語と空間を渡ってくれば、曲がらないほうがおかしいわけですが。

 すなわち自受用三昧・・・そして、曲がらずにまっすぐにお釈迦さまから伝わってきているものは、自受用三昧であるといっているわけです。この「自受用三昧」という言葉。まさにこの自受用三昧を体得するために、仏法があるといってもいいかもしれません。お釈迦さまが伝えたかったことですね。妙術ですので、ここで一言で語ることは至難ですが、あえて言うなら、自分の生きているこの命に一生懸命になる、ということになりますでしょうか。 

 隣の芝生は青いという言葉がありますが、隣の芝生ではなく、自分の芝生をみよ、ということです。どうしても他人のものと自分のものを比べて、他人のもののほうを羨ましがっているのが常である人間ですが、これでは自分の命を生きることにはなりません。

 また、「他人の不幸は蜜の味」という言葉も他人と比較したことを表したものですが、わたしは以前、このことについて、よくよく考えていたことがあります。それはつまり、自分の幸せは他人と比較することでしか得られないのか、ということです。たしかに、自分より劣っている他人をみることで一時の安心感といいますでしょうか、そんなものを得られるものです。しかしこれは全く表面的であり、水に浮かんだ泡のごとく、一瞬にして消え去るものでもあります。

 上をみれば、ゴーンさんのように何十億も持っている人もいれば、一方で漫画喫茶で暮らしている人もいる。いや、漫画喫茶で暮らせるのはまだましで、せ明日食べるご飯がない人もいる。このことから、答えは明白で、他人と比較して一喜一憂しているうちは幸せにはなれないだろうな、というのが当時のわたしの答えでした。

 長くなってしまいましたが、自受用三昧とは、そんな他人と比較して一喜一憂することはやめて、この今生きている自分の命というものに標準を向けて生きていくというふうに言えるのではないかと思います。

※わたしはSNSを、他人の芝生見させる装置と呼んでいます。

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