正法眼蔵行持②
kofukuji
足利 祥林山 高福寺
われを見成する行持、いまの当隠に、これいかなる縁起の諸法ありて行持すると不会なるは、行持の会取、さらに新条の特地にあらざるによりてなり。縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆえにと、功夫参学を審細にすべし。
われを見成する行持~
「新条の特地」とは、いままで想像もしなかったような新しい境地のことを指す。つまり、様々な環境の影響を受けて(縁起)、よしやるぞ!という気持ちが起きたり、一方でそんな気負わずともたんたんと仏道修行ができたりするわけで、いわゆるさとりを得るために、一般人が想像するような無我の境地だとか、さとりだとかいう特別な目新しいものを必要としないのが行持であり真実の仏法である。
縁起は行持なり~
ひとは環境によって左右される。嫌なことを言われれば腹が立つし、おもしろいことがあれば笑う。否、腹が立ってしまう、笑ってしまう、こう表現したほうがよいだろう。自分でやっているようで実はやらされている。まじりっけの無い純粋な行為、それを縁起は行持なりという。
一方で、行持という今この瞬間の行為は、過去とも未来とも切断された、唯一のものだ。人間は環境に束縛されている一方で、今この瞬間はなにものも触れることができない。触れることができないほど今になり切った行為を行持という。
※この正法眼蔵考察記は、毎週日曜朝8時に更新予定?