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正法眼蔵行持③

kofukuji

これによりて、仏仏祖祖、仏住し、仏非し、仏心し、仏成じて断絶せざるなり。この行持によりて、日月星辰あり、行持によりて、衣正身心あり、行持によりて、四大五蘊あり、行持これ世人の愛処にあらざれども、諸人の実帰なるべし。

これによりて、仏仏祖祖、仏住し、仏非し、仏心し、仏成じて断絶せざるなり

仏仏祖祖というのは、これまで存在した歴代の仏や祖師方。仏住も仏非も仏心も仏成も、それらの仏や祖師方が言及した言葉、行持のありようだろう。そうやって、絶えることなく行持が続けられたことをここでは示している。

この行持によりて、日月星辰あり、行持によりて、衣正身心あり、行持によりて、四大五蘊あり

「行持」と言うと、なにかそこに行為があるように感じてしまう。そうすると、自分の行為と太陽や月がなにか関係あるのかな?となってしまうが、自分が行持の中にいるときは、そこには自他の区別がない状態なので、わたしが太陽であり、月であり、星であり、万物であるということになる。仮に「わたしが」と表現したが、行持の中では「わたし」が顔を出す隙はない。

行持これ世人の愛処にあらざれども、諸人の実帰なるべし。

わたしたちは修行のような堅苦しくめんどくさいものはやりたくないが、それをしないと、本物の核心は得られないよ、と。

※この正法眼蔵考察記は、毎週日曜朝8時に更新予定

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