区画整理された街はつまらない
kofukuji
足利 祥林山 高福寺
先日、女性の友人がこんなことを言った。
「子どもの面倒を見るのが大変だから、働きに出て保育園に預けてるんだよね」
彼女の家は、旦那さんの収入だけで生活は十分できるらしい。
だからこれは「生活のため」ではない選択だ。
この言葉を聞いたとき、胸の奥に小さな違和感が残った。
少し前までなら
「子どもはいるけど、子育てはしたくない」
なんて言葉は、口に出すことすら憚られただろう。
今は違う。
・無理をしない
・自分を守る
・正直でいる
それらが美徳として語られる時代だ。
だから本音がそのまま言葉になる。
それ自体は、社会が成熟した結果とも言える。
引っかかったのは、彼女が働いていることでも、
保育園に預けていることでもない。
引っかかったのは
「子育てしたくない」という理由そのものだった。
子どもを持つという選択は、
少なくとも「育てる」という行為と切り離せないはずだ。
それを
「やりたくないから距離を取る」
と語れてしまうこと。
そこに、時代の変化を感じずにはいられなかった。
保育園が悪いわけではない。
共働きで必死な家庭はたくさんある。
ただ今回の話は、
大人の都合が完全に主語になっていた。
・自分の時間がほしい
・大変だから
そうした感情は、きっと誰の中にもある。
だから彼女を責める気にはなれない。
それでも、
子ども側から見たとき、
この構図はどこか残酷でもある。
親になることは、確かに自由を奪う。
でもそれは
自由が消えるのではなく、
自由の使い道が変わるということではないだろうか。
自分のためだけに使っていた時間や力を、
誰かのために差し出す。
それを「損」と捉える社会では、
子どもは増えない。
「個」が確立した社会で子どもが増えないのは、当然の流れかもしれない。
副