仏法

移民問題を考える

kofukuji

本質的に、人間はすべて平等である。
日本人であろうが外国人であろうが、良い人もいれば悪い人もいる。

しかし、人間には「集団」というものがある。
集団ができると、物事を円滑に進めるために、そこには必ず「ルール」が生まれる。

そのルールには大きく二つの種類がある。
ひとつは法律のように明文化されたもの。
もうひとつは、暗黙の了解として明文化されないものだ。

暗黙の了解は、外から見ただけではわかりにくい。
その土地に長く身を置き、暮らす中で、ようやく「ああ、そういうことか」と腑に落ちていく。

だからこそ、外国人は苦労をする。
明文化されていない日本の「空気」や「察し」に戸惑うのだ。
日本は特に、この暗黙の了解が多い国かもしれない。

しかし、その土地に長く染みついた暗黙の了解を、外から来た人のために簡単に変えるわけにはいかない。
なぜなら、それによってこれまでうまく回ってきた面もあるからだ。

一方で、「人間みな平等なのだから、外国人の習慣も尊重すべきだ」という意見もある。
それも確かに正しい。だが、忘れてはならないのは――
「平等であること」と「優先順位がないこと」は同義ではない、ということだ。

人は平等でありながらも、立場や状況に応じた秩序がある。
上と下があってこそ平等――矛盾するようで、これが真実である。

道元禅師の言葉に「低処低平、高処高平」というものがある。
低いところは低くて平等、高いところは高くて平等。
高いも低いもなくなったら、それはただの無だ。

優先順位は必ずある。

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