「いただきます」は免罪符になりうるのか
――動物愛護・ヴィーガン・そして命の線引きについて
「動物がかわいそうだから肉は食べない」
「命を奪わない生き方を選びたい」
動物愛護を動機とするヴィーガンの思想は、誠実であり、優しさから出たものである。
しかし同時に、そこには避けて通れない問いが潜んでいる。
それは、命の価値をどこで線引きするのかという問題である。
「動物は感情がないから食べてもいい」という論理
しばしば聞かれるのが、
「動物には人間のような感情や理性がないから、人間とは違う」という説明である。
だがもし、
* 感情の有無
* 苦しみを理解できるか
* 知性や生産性
こうした能力によって命の価値を測るのであれば、
その物差しは必ず人間同士にも適用される。
ここで思い出されるのが、相模原障害者殺傷事件の植松被告の思想である。
彼は、障害者は「生産性がない」「意思疎通ができない」存在は生きる価値がないと考えた。
多くの人はこれを直感的に否定する。
しかし論理の構造だけを見れば、
> 「能力が低い命は切り捨ててよい」
という点において、
「動物は感情がないから食べてもいい」という考えと、
根は同じ場所に立っている。
この立場に立った瞬間、
植松被告の思想を原理的には論破できなくなる。
問題は思想ではなく、線の引き方である
では、どこに線を引くべきなのか。
「人間だから」という理由は、
答えというより、あらかじめ置かれた線である。
その線を、論理で説明できないままでも守ろうとすること。
それが倫理である。
> 奪ってはならない存在があると、理由抜きで決めること。
これがなければ、
命はすべて比較と選別の対象になる。
だが同時に、人間は生きるために他の命を奪わずにはいられない。
ここに、どうしても消えない矛盾が残る。
「いただきます」は誰を救っているのか
日本には「いただきます」という美しい言葉がある。
感謝して食べましょう、と教えられる。
しかし、動物の側に立てばどうだろうか。
> 「感謝はいらないから、食べないでほしい」
それが本音ではないか。
感謝されたからといって、
痛みが消えるわけでも、
死がなかったことになるわけでもない。
つまり「いただきます」は、奪われる側を救う言葉ではない。
問題は、感謝そのものではない。
問題は、
* 感謝しているから大丈夫
* 手を合わせたから問題ない
と考えた瞬間である。感謝が免罪符になることである。
そのとき感謝は、
命を奪う現実から目を逸らす**麻酔**になる。
本来の「いただきます」は、正当化の言葉ではなく、自分が加害者であることを忘れないための言葉だったのかもしれない。
線引きは論理ではなく、感情の重さで決まっている
では結局どこで線引きをすればよいのだろうか。
牛を屠殺する場面と、畑で大根を引き抜く場面を想像してほしい。
同じ「命を奪う」行為でも、
人が受ける感情的インパクトはまったく違う。
* 血が出る
* 叫びがある
* 逃げようとする
* 目が合う
動物には、人の感情を強く揺さぶる要素が揃っている。
一方、植物は沈黙している。抵抗も、悲鳴も、目線もない。
この差は、論理では埋められない。
お釈迦さまの線引きは「科学」ではない
仏教の不殺生戒は、「動物と植物のどちらに意識があるか」という科学的判断から来ていない。
お釈迦さまが見ていたのは、人間の心の壊れ方だったのではないかと思う。
> 生き物を殺す経験は、人の心を確実に鈍らせる。
特に、苦しみや恐怖が目に見える殺生は、人を慣れさせ、麻痺させる。
だから、
* 動物は殺すな
* 植物は許容する
という線を引いた。
それは命の序列ではなく、人間側の良心的な心を守る線引きだったのではないか。
わたしはヴィーガンではない。肉も食べる。でも実はわたしの知らないところでわたしの心はすでにどこか壊れてしまっているのかもしれない。