仏法

自律神経をバランスさせる坐禅

kofukuji

道元禅師が書いた正法眼蔵の中に「この法は、人人の分上にゆたかにそなばれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし、はなてばてにみてり…」という言葉が出てくる。これは、人間に本来備わっている”ある力”を発揮させるためには、坐禅のようなある特定の行為が必要だということだ。

ではこの”ある力”とはなにか。それは自律神経をバランスさせることだと西嶋和夫氏は言っている。道元禅師の時代は、自律神経という言葉がなかったから、このような表現をするしかなかったということだ。たしかに私自身、坐禅をしていると頭の中すっきりまとまって、やるべきことが定まることがよくある。そしてこれは坐禅をしているときに限らない。無心に掃除をしているときもそうだし、外を散歩しているときにも起こりうる。

そしてこの”自律神経がバランスしている状態”というのが起きにくい状態というのもおそらくある。わかりやすいのが頭がカーっとなっている状態だ。それは怒りの状態だけでなく、なにか欲望に振り回されているときもそう。ネットサーフィンなどというのも自律神経が乱れる最たるもののように感じる。

もっとなにかが、もっとよいものがないかと、外に探し回っているうちは、一向に自律神経がバランスせず、満足が訪れることはない。人間はもっと満足しようとして、満足を逃している。本当に満足するためには、その満足しようという思いを一度手放して、自分を解放してあげる必要があるのではなかろうか。さすれば、おのずとてにみてり。

【補足】”自律神経”などというたいそうな言葉を使わなくてもよいとも思う。あまりそういった人間の持つ目には直接見えないものに名前を付けることは、なにかこう大きなものを小さくしてしまう印象がある。だから、そのような”感じ”がする、程度にしておいてもいいように思う。だから道元禅師も曖昧な表現なのだと思う。

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