古坂老師随聞記「宝鏡三昧吹唱」R5.11.20

kofukuji

※ただいま古坂老師の勉強会では「宝鏡三昧吹唱」を勉強しております。このブログはその記録です。

道元禅師は、易学は仏法の義を忘れるからやるなと言っているが、宝鏡三昧に易学の内容が引用されているのは、あくまで五位を理解するのにわかりやすいためである。なので、三教一致((仏教、道教、儒教が同じ思想であるということ)を肯定しているわけではないと面山さんは言っている。

世間の平等といのは、山と谷があったら、山で谷を埋めて平にすることだと考えられているが、仏法の平等は、山は山、谷は谷のままに命そのままであること。平等と差別と天秤に乗せて考えるのではなく、それらの働きの土台にあるものが本当の平等。平等も差別もないのが本当の救いであり、一方で生かされているから平等・差別がある。

「土台」について
普勧坐禅儀に「不思量底、いかんが思量せん、非思量」という言葉があるが、思量とは生きている大自然の姿(差別)のことを指し、不思量とは言葉の約束を超えた姿のことをいう。「不」は土台のことである。

細には無間に入り、大には方所を絶す
細とは小のこと。小ささを突き詰めることはできない。小ささを突きつめてゼロになってしまったらそれは小さいとは言えない。つまり理屈では捉えられない(無間)ということ。大も同じでどこまでも広がり続ける。広がり続けたら空間(方所)という概念はない。大小というのは言葉の約束で仏法はそれを飛び越える。これを妙観察智が教えてくれる。

「空」というのは、そのまんまということ。眠い顔をしている、それがそのまんま真実の姿。

※勉強会のノートを頼りに思い出しながら書いているもので、決して正確なものではないことをお断りさせていただきます。

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