仏法

福岡伸一「動的平衡」と道元禅師「修証一等」――エントロピー増大と精神修行の関係

kofukuji

福岡伸一の「動的平衡」とは何か?エントロピー増大との関係

福岡伸一さんが提唱する「動的平衡」という概念は、生物の本質をとらえる重要な視点である。

自然界ではエントロピー(無秩序さ)は常に増大する。
これは熱力学第二法則として知られ、放っておけば物質は崩れ、秩序は失われていく。

しかし生物は違う。

生物は絶えず分解と合成を繰り返し、壊れながらも全体としての秩序を保っている。
つまり、エントロピー増大の流れに抗い続けている存在である。

この「壊しながら保つ」状態を福岡さんは「動的平衡」と呼んだ。


道元禅師の「修証一等」とは何か?

一方、曹洞宗の開祖である
道元禅師は「修証一等」という思想を説いた。

修証一等とは、

・修行(修)と悟り(証)は別ではない
・修行そのものがすでに悟りのあらわれである

という考え方である。

悟るために修行するのではない。
修行しているその姿が、すでに悟りなのだ。


エントロピー増大は精神にも起こるのか?

ここで一つの仮説が浮かぶ。

物質世界にエントロピー増大があるならば、
精神にもエントロピー増大は起こるのではないか。

放っておけば――

心は散漫になる
思考は拡散する
欲望は増殖する
不安は膨張する

これはまさに精神の無秩序化、
つまり「精神的エントロピーの増大」と言えるのではないか。

現代社会は情報過多で刺激が強い。
スマートフォンを開けば、心は瞬時に外へ引き裂かれる。

何もしなければ、心は整わない。
自然放置は、精神の無秩序化を意味する。


修行とは精神のエントロピーを下げる営みである

坐禅や読経、掃除、作務。

これらは一見、何かを「足している」ように見える。
しかし実際は逆だ。

余計なものを削ぎ落としている。

修行とは、

・心を一点に戻すこと
・散乱した意識を回収すること
・増大した精神的エントロピーを小さくすること

とも言える。

ここで重要なのは、

秩序を完成させることではないという点である。

生物が絶えず代謝し続けなければ崩れるように、
精神もまた、行をやめれば散漫になる。

だから修行は「到達」ではなく「営み」である。


動的平衡と修証一等は同じ構造を持っている

福岡伸一さんの動的平衡は、物質レベルの話である。
道元の修証一等は、精神・存在の話である。

しかし構造は似ている。


動的平衡         修証一等    

壊れながら保つ    修しながら証する
静止ではなく動的  完成ではなく行為
抗い続ける生命  行じ続ける仏道

どちらも「完成された静的秩序」を目指していない。

動き続けることそのものが秩序である
という立場である。


放っておけば崩れる――だから行じる

エントロピーは増大する。
精神もまた散っていく。

だから修行する。

しかしそれは、
エントロピーを完全にゼロにするためではない。

増大し続ける流れの中で、
絶えず整え続ける営みこそが、
修証一等なのではないか。

悟りは未来に完成するものではない。
整え続けるその姿そのものが悟りである。



まとめ:生命も精神も「動的平衡」である

福岡伸一さんの動的平衡は、生物の説明である。
しかしそれは、精神の在り方を照らす比喩にもなる。

・生命は壊れながら保つ
・精神は散りながら整える
・修行は完成ではなく継続である

物質レベルのエントロピー増大。
精神レベルの散漫化。

それに抗い続ける営みとしての修行。

ここに、動的平衡と修証一等の接点があるのではないだろうか。

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