千の風になっているのなら、お墓にもいる
kofukuji
足利 祥林山 高福寺
送り盆には毎年多くの盆飾りがお寺に持ち込まれる。ゴザや、精霊馬、花飾りなどさまざまだ。
高福寺ではこれらをお焚き上げしている。かつてはゴミ収集車に出したりもしていた。
しかし、そもそもゴミ収集車に回収してもらうのであれば、檀家さんが各自、家でゴミに出しても同じではないだろうか。
ゴミに出せないからお寺にもってくるのに、お寺もゴミとして出してしまってそれでいいのか?お寺が代わりにゴミに出すことで少しは違うということか。
もちろん、お焚き上げが難しいお寺もあるだろうから必ずしもゴミ収集車に依頼することがダメなわけではない。しかし、読経などで供養してから出すことが肝要だと思う。
想いを込めてお供えされたものを想いを込めてさよならする。それが人間的だと思う。想いなんて関係ない、用が済んだのだからゴミとして処分してもいいじゃないかというのなら、死んだ人間はただの肉塊なのか。
お盆という行事はおおまかに言えば”想い”で成立している。この”ゴミに出せない想い”を大事にしないのであれば、想いで成立しているお盆自体の存在意義が危うくなってしまう。
副