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事実はいつも一つきり

kofukuji

「事実」という言葉があります。それは事実ではない、などと使います。では、この「事実」という現象は一体なんであるのでしょうか。たとえば、先生が生徒の居眠りを見つけて注意をする。しかし、生徒は「寝ていない、下を見ていただけだ」と反論する。この場合、先生と生徒、どちらの発言が事実でしょうか。

 世間ではこういった場合、どちらが事実であるかを決めるために、その発言の信憑性や、その他第三者の証言、その発言者自身の信頼度などを考慮し、なにが事実かが認定されることでしょう。つまり、世間でいう事実というのは、そのとき実際に起こったことではなく、実際に起こったであろうと想定し、認定することなのです。

 私たちが何か言うときには、そこに主観的な意図や状況が常に入り込みます。そのため、完璧な言葉というのはありません。実際に起こったことではなく、頭の中のものであるわけです。頭の中のものであるからには、常にそこには間違いの可能性が残るわけであります。そうでなければ、「勘違い」などという言葉は存在のしようがありません。

 世間の事実というのは、こういったものでありますが、では、本当の事実、究極的な事実とはなんでありましょうか。それは、今、ここに、たしかに生きているという、一瞬一瞬のありのままの姿なのです。まさに今、みなさんがこの文章を読んでいるという事実、足がかゆかったら、足がかゆいという感覚、その事実、それがそのものです。それ以外に、事実といえるものはありません。この一瞬一瞬のありのままの姿以外のことは、頭の中にあるだけで、妄想と区別できないのです。

 しかし、せわしない世間の日常生活では、この一瞬一瞬をなおざりにして、未来のこと、過去のことばかりに思いを巡らして悩んでしまうものです。いかにこの一瞬一瞬に焦点をあてて生きていけるかということが坐禅を修行する理由であり、仏教を学ぶ理由なのです。

副住職

合掌

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