副住職日記

【考察】赤信号は渡ってもいい

kofukuji

わたしは歩いているときに赤信号を待つのが苦手だ。なぜなら信号は車のためにあると思っているからだ。信号は車があるからある。車がなければ信号はいらない。そして車は歩くより速くて楽だ。なのに速くて楽をしている運転手のために、自分の足で歩いてなおかつエコな歩行者が車のために待たなければならない理由がわからない。

以前友人と大洗の夜道をスーパーに向かっていたときのこと。歩行者信号は赤、車は見渡す限り無しであった。私がふいに渡りはじめると、友人が私を咎めた。君は先生もやっているのに赤信号を渡るとはどういうことだ、と。ちなみその友人もわたしと一緒に赤信号を渡った。

横断歩道を渡っているときに曲がってきた車のために小走りになる人は多いと思うが、速い車のために遅い歩行者が走らなければならない道理はなんであろうか。道路の世界は弱肉強食なのか。

栃木の車は横断歩道で止まらないことが有名だが、夏の炎天下の中、エアコンの効いた車の中で足首だけ動かしている人を待つ歩行者を見るとなんとも違和感を感じる。

とはいっても赤信号を守るのは基本的には必要だ。ただし、車が全く通っていない赤信号はどうだろうか。見渡す限り車はゼロ、しかし信号は赤。渡るだろうか、渡らないだろうか。わたしはどうしても渡ってしまうことが多い。車が来ていない信号を歩行者が待つことは無意味の極地だと思っているからだ。

普段、意味を求めない坐禅をしていながら、無意味の極地である「車のない赤信号」を待つことができないのは不思議なものである。

しかし、坐禅は意味のない世界で意味のない行為をする。一方で、信号の話は、意味のある世界で意味のない行為をするから耐えられないのだ。

車は来ていない、気温は40℃、しかし信号は赤。いつ来るかわからない涼しい顔をした運転手を熱中症になる可能性のなか待つ理由はいかに。

熱中症になったら誰が責任を取るのだろう。

意味のない世界で意味のない行為をすることと、意味のある世界で意味のない行為をすることは全く別だ。

だからわたしは歩行者用の信号は、青と赤の点滅(一度止まって安全を確認して渡る)の交互でいいのではないかという提案をしたい。

以前友人とこの議論をした時に言われたのが、子どもが真似をしたらどうするのか、というものだ。たしかに一理はある。これは子どもに限らないが、安全だと思っても、車が猛スピードだった場合に自分のところまで来る時間の目測を誤る可能性は大いにあるだろう。

ただし、青信号だから安全というのも幻想だ。前にも書いたが、道路を横断する上で大切なことは信号の色ではなく、安全かどうかだ。

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