仏法

自認と諸法無我

kofukuji

まず自認とは「自ら認める」「自分で認識する」ということだが、仏教には諸法無我という思想があり、そもそも「自分」というものをはっきりと認めていない。なぜかというとこの「自分」とは他人との関係性の中で生まれてくるからだ。

なぜ「自分」がいるかという(「自分」という概念が必要かというと)と、他人がいるからだ。想像してほしい、もし仮にあなたがこの世界にたった一人だったら、「自分は」という言葉が必要だろうか?

名前でも考えてみよう。もし仮にこの世界にあなたがたった一人だとしたら、名前が必要だろうか?きっと不要なはずだ。なぜなら呼んでくれる相手がいないからだ。呼んでくれる他人がいるからこそ、その他人との区別が必要になり名前の存在意義が生まれる。

あなたは背が高いだろうか?低いだろうか?高いのであればなぜ高いと言えるのだろうか?それは自分より背の低い他人がいるからだ。他人がいなかれば自分の背が高いか低いかは決してわからない。

自認に話を戻そう。自認とは「自分で認識する」ということだが、さきほど述べたように仏教ではこの「自分」というのは他人との関係性で生まれると考える。つまり「自分で認識する」ではなく「他人との関係性の中で生まれた自分を認識する」というのが正しいと思う。

わたしは自分を坊さんだと自認している。これは私自身が自ら認識していることであるが、なぜわたしが自分を坊さんだと認識できるかというと、坊主でお袈裟を着ていてお経を読む人というのを”坊さん”だと世間が認識していて、わたしがそれに該当するからだ。仮にわたしが「わたしは三毛猫だ」といっても誰も認めてくれないだろう。(ちなみにアメリカでは学生が猫としてふるまうことを許している学校があると聞いたのだが本当だろうか)

自分を自分で定義できないということに関しては、インド最大の哲人といわれているヤージュニャヴァルキヤが、アートマンは「非ず」でしか表現できないと言っている。自分というのは認識する主体なのだから、その認識する主体を認識することはできない。わたしたちにできることといえば、他人を通して確認することくらいだ。

しかしここで注意してもらいたいのが、内から湧き出る衝動というのはたしかに存在するということだ。好きとか嫌いとか、こうありたい、こうありたくない、というのは紛れもないその人本人のものである。「これは〜だ」と定義することと「これについて〜な感情を持っている」ということは次元の違う問題だということだ。言葉の世界と実物の世界の違いとでも言おうか。

 いろいろな言葉で自分を説明することはできる。好きなことや嫌いないこと、何を愛し、何を恐れるのか、価値観や志、いい癖や悪い癖、大事にしている人たち、宗教、家系、経歴など。人は自分自身について、実にたくさんの知識を得られる。それでも、私たちは”私たちの理解した知識”ではない。
 実は、こうした自分を知ることはいいことだ。人生を構築するプロセスにおいて、自分自身の好き嫌いや傾向、価値観などは貴重な情報となる。だからと言ってそれが「自分は誰?」に対する答えにはならない。

「自意識と創り出す思考」 ロバート・フリッツ

昨今の性自認の問題にしろ、自己肯定感の問題にしろ、人間の根源的な悩みにしろ、この”自”の問題をしっかりと参究する必要があると思う。

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