仏法

ぶれてもいい。

kofukuji

常々、自分はぶれるなあと感じる。中村哲さんの本を読めば、誰かのためになにか!と思うし、金持ち父さん貧乏父さんを読めば、投資をしなければ!と意気込む。道元禅師の本を読めな坐禅をしたくなるし、貧であるべきだなあとも思う。我ながら自分のぶれように驚く。

しかし、それは当然である。伊坂幸太郎さんの小説だったと記憶しているが「ひとは読んだ小説のような人生を送る」という言葉がある。世の中にはいろんな小説があり、そこには様々な思想を持った主人公が登場する。ひとはその主人公の生き様に共感したり、反発したりして影響を受ける。

これは仏教の縁起という考え方だ。ものごとは相互に依存しあって成立している。その法則からはこの頭の中の考え方にも適用される。しかし、ときに世の中には一貫してブレない人もいるが、そういう人はこの縁起の法則を免れているのだろうか。

わたしは、そういう人の心の奥底は本当はブレているのに、これまでの考え方を固持しているだけのように思う。というよりブレてしまうのが怖いのかもしれない。「ブレる=変わる」ということはこれまでの自分を否定することになるし、新しいやり方は未知なので不安もある。

安定を求めたいのが人間だから、それも致しかたないだろう。しかしブレるのが人間、いや、宇宙の法則だ。むしろ”ブレる”ということは一貫いるので、そこに安心を置くべきだと思う。大事なのはブレながらも古人の意見を参照しつつ、なにが正しいのかを問い続けることである。

あの有名な西有穆山(西有穆山という生き方)だって、ずっと精進料理を食べてきたが、最後の最後に病気を治すために牛乳を飲んでいる。(現代は牛乳が健康にいいかは疑問だが)

人間はブレるものなのだ。

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