仏法

曹洞宗を曹洞宗と呼ぶことについて

kofukuji

道元禅師は自らの宗派を特定の名前で呼ぶことを禁じていた。それを瑩山禅師が曹洞宗と名付けた。名前がないのは布教に向いていないからだ。

ただこれには弊害があると思う。仏教の真髄は未分化だ。名前がつく前の世界で安らぐことだ。だから坐禅をすることに理由付けができない。

ひとは概念で悩む。勝った負けた、偉い偉くない、金持ち貧乏、曹洞宗、臨済宗…

名前をつけるというのは、世界を抽象化することだ。そして抽象化した世界に閉じ込められる。しかし、名前を付けなくては布教ができない。難しいところだ。

瑩山禅師はそのところをどこまで考えられていたのだろう。

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