仏法

坐禅していることそのものが悟り

kofukuji

と、曹洞禅を勉強しているよく書いてあります。修証一等というやつですね。

偉いお坊さんの本にもよくそんな言葉がでてきます。「坐ればわかる」「坐禅そのものが悟り」など。しかしそもそも坐禅をしたってなにか手ごたえがあるわけではないので、さっぱり言葉の意味がわからない。

でもある時気が付きました。坐禅をすることが悟りだというのであれば、素直に坐禅している状態が悟りだと了解しようと。

ある意味これは発想の転換です。コペルニクス的転回というやつです。太陽が動いているのではなく、地面が動いているという気づき。

どうしても坐禅をしたその先の結果を求めてしまうのが人間ですが、結局、なにか素晴らしい結果が待っているのなら、世間の競争社会と同じこと。そうではなく、そういった比較競争の世界はわきに置いてみる。

もっと言うと悟りとはそんなたいそうなことではないということ。今ここにたしかに生きているという実感、それが悟りなのだいえる。そういう意味で悟りとはある状態であり、努力しないと持続しないものとも言える。

坐禅してなにか起こるのではなく、坐禅しているところが正解。

悟るためには坐禅ではなく、作務(掃除)などでもいいのですが、場所がきれいにるという世間的な価値がある一方で、坐禅は世間的には生産性ゼロであり無意味の極致ですので、そういう意味で”今ここ”に一番近い状態といえるのではないでしょうか。

逆に、比較にどっぷりとつかっている人にとって坐禅は辛くてしょうがないでしょう。

すべての比較をやめた世界。

今ここにはなんの問題もない。

記事URLをコピーしました