感じたままに生きることは自由なのか
最近よく聞く言葉がある。
「感じたまま生きていい」
「好きなことをすればいい」
「本音に正直であれ」
SNSを見ていると、そんな言葉があふれている。
息苦しい社会の中で、そう言われて救われた人も多いだろう。
でも、ふと立ち止まって考えてみたくなる。
感じたまま動くことは、本当に自由なんだろうか。
たとえば
・イライラしたらぶつける
・不安になったら逃げる
・楽なほうへ、気持ちいいほうへ流れる
それを「自然」「正直」「自分らしさ」と呼んでいいのか。
我慢という言葉が嫌われだして久しいが、
道徳のような堅苦しいものを手放して
感じたままに生きるというのは、どこかかっこよくも聞こえるし、正直、楽でもある。
禅もまた、同じ問いに触れる
実は禅を学んでいくと、
「感じたままに生きていい」ような結論に見えることがある。
禅は言葉を嫌う。
不立文字 が有名だが、
つまり、概念に囚われないこと。
手放していくこと。
それが禅の核にある。
「概念に執着しないで生きる」
この言葉は、自由で、やさしく、正しそうに聞こえる。
けれど同時に、こんな疑問も浮かぶ。
「じゃあ、感じたまま動いていいのか?」
「感情にまかせることが、自然ということなのか?」
この問いは、特別な人のものではない。
誰にとっても、一度は立ち止まる場所だと思う。
感情は、概念ではない
喜び、怒り、悲しみ、欲、寂しさ。
感情そのものは、概念ではない。
それは身体や心に自然に起こる現象で、
まだ善悪も正誤も含まれていない。
雨が降るのと同じで、
起きてしまうもの だ。
しかし感情は、すぐに概念化される
問題は、その直後にある。
私たちはほぼ無意識に、感情に意味を与える。
これは正当な怒りだ
本音に従っているだけ
抑圧しないほうが健全
自然体で生きている証拠
こうして、感情を正当化する概念が貼られる。
ここが一番トリッキー
「善悪」という古い概念は疑うのに、
「本音」「自然」「正直」「自由」
みたいな新しい概念は疑わない。
けれど、これらもすべて概念だ。
しかも「善悪」より柔らかく、
自分に都合がいいぶん、
気づかないまま従ってしまいやすい。
「概念に縛られていないつもり」で、
実はいちばん都合のいい概念に従っている。
そんな逆転が、ここで起きる。
感情はリアルだが、正しさの指標ではない
感情は確かにリアルだ。
否定する必要はない。
けれど、感情は正しさの指標ではない。
天気と同じで、荒れる日もあれば、
すぐに変わる日もある。
それに盲目的に従うと危険だ。
無執着とは、感情に従うことではない
「執着しない」とは、
何にも縛られないという意味ではない。
それは
・感情を否定しない
・しかし、主導権は渡さない
という、とても静かな態度だ。
感情を「大事にすべきもの」「正直さの証拠」と
特別扱いした瞬間、
そこにはもう新しい概念が入り込んでいる。
欲は「悪」じゃない。でも「主人」になると厄介
仏教では、欲そのものを否定しない。
欲があるから、生きようとする。
欲があるから、何かを始める。
問題は、欲に振り回されることだ。
「欲に左右されない生き方は高尚だけど、つまらない」と思うかもしれない。
でも、これは少しズレている気がする。
欲を消すか、欲に従うか、
その二択しかないように思ってしまうからだ。
実際は、その間にもう一つの立場がある。
欲を感じる。でも、判断は別にする
静かな欲は、
始めても荒れない。
せっかちな欲は、
満たしても終わらない。
そして最後に、僧侶も同じ場所に立っている
これは僧侶だけの話ではない。
けれど現代の僧侶は、特にこの問いから逃げにくい。
戒や外のルールが曖昧になった分、
「概念に執着しない」
「自然体で生きる」
という言葉は、免罪符にもなりやすい。
だからこそ、僧侶の修行は
戒を守ること以上に、
自分の感情と概念をどれだけ精密に見ているか
に移っているのかもしれない。
線がなくても、人は踏み外さない
概念を手放すとは、雑になることではない。
何でも許すことでもない。
問いを失わない限り、人は簡単には崩れない。
そしてこの問いは、
在家であっても、僧侶であっても、同じように立ち上がる。
「私は今、
感情を見ているのか、
それとも正当化しているのか。」
副