仏法

頭ではなく行為に重きを置く

kofukuji

この前、足利短期大学の成道会で”損をすること”について話をさせていただきました。人間は損をすることが嫌いです。心理学では、人は得をするより損をしたくないという性質があるそうで、損をした時のショックは、得をしたときの喜びより2.25倍大きいそうです。以前、足利短期大学の付属幼稚園に行ったときに、園児から突然「ハゲー!」と馬鹿にされました。心理学的にいえば、わたしがこの罵倒から立ち直るためには、3回も褒められないといけません。

それはさておき、損得勘定という言葉があるように、人間はどうしても損か得かで行動を起こすかどうかを決めてしまうものです。講話では「ねずみくんのチョッキ」という絵本を例にしましたが、この絵本では、ねずみくんが親切に他の動物に貸したチョッキがビヨンビヨン伸びて返ってきてしまいます。自分のチョッキがビヨンビヨンに伸びてしまったら誰でもショックでしょう。

しかし、こうは考えられないでしょうか。”その行為をすること自体が得である”と。ねずみくんの行為であれば、自分のチョッキを貸すという行為そのもの、その貸すという行為を起こせたこと自体が得であると。他の動物が「チョッキを貸してほしい」と頼んでくれたおかげで”チョッキを貸す”という行いができたということです。

チョッキを貸した結果、ねずみくんにとって”得になるか、損になるか”というのは頭の中の話です。損か得かという概念の話です。しかし概念は概念です。実物ではありません。チョッキを貸すという行為において実物はなにか?それはその貸すという行為自体です。行為そのものです。損か得かの概念ではありません。

概念ではなく、その行為自体に意味を見いだすことができる、それが禅なのではないかと思います。だから禅寺修行は、ご飯を食べること、掃除をすること、などのありきたりな日常すべてなのではないかと思います。

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