仏法

坐禅とマインドフルネスの違い

kofukuji

https://academy.president.jp/articles/-/1052(超エリートがなぜ今、瞑想に励むのか)

坐禅とマインドフルネスで決定的に違うのは、目的があるかどうかでしょう。曹洞宗では只管打坐といって”ただ”座ることを教えます。”ただ”座るだけなので、そこに、「こうなりたい」とか「こうあってほしい」という願望は含まれません。

記事の中には、瞑想経験者と未経験者での世帯収入の差や、最終学歴の差を調べたデータ(そこまで大きな差はないようにみえる)を載せておりますが、仏教における坐禅の功徳が、他人よりお金を稼げることやいい大学に入れることであるとは到底思えません。

おそらくこの点が、仏教を理解すること、行ずることを難しくしているものでしょう。仏教が目指すところは一般的な理解が到底及ばないところを見据えていると思います。(思いますというのは、私は完全に習得していないからです。)お釈迦さまの生き様を見れば明らかなように、彼は次期王様の身分を捨てて出家しています。

もし仮に悟りというものが他人より勝ることであるならば、明けの明星をみてさっさとお城に戻ったことでしょう。しかしお釈迦様さまがそうしなかったのは、誰かと比較して勝つことに幸せを見いださなかったからに他なりません。誰かと比較して勝ことに救いはない。私もそう思います。

ただ、記事にあるような精神的な効果はたしかにあるように感じます。その結果成功を収める人もいるでしょう。しかしあくまでそれは副次的なもの。成功してもしなくてもどっちでもいいじゃないかという腹の据わりが大切だと思います。そしてその効果を得るために肝心なのが只管打坐です。ただそこにいる。目的一切なし。それが大切。表向きはどっちでもいいんだと装いながら、内心、どうにか儲かりますようにじゃたぶんダメだと思う。

はなてばてにみてり

坐禅は、只管打坐しかんたざといってね、ただ坐るだけ。坐ってなにかを得ようとするわけじゃない。坐って何かの足しにしようとするわけじゃない。なんにも当てにしないで、ただ坐る、それが坐禅だ。なんにも求めるものがない。なんにも期待しない。当てにするものは一つもない。だから心が安らぐ。

円融便り(昭和59年10月1日号)「坐禅は最高のぜいたく」より
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