仏法

縁起と自由意志

kofukuji

日頃から、縁起と自由意志について考えている。いまだにはっきりしないがメモ代わりに記す。

まず、縁起について確認する。

縁起(えんぎ)
 → すべての現象や行動は、無数の原因と条件(縁)によって起こる。
 → だから「自分の意志だけ」で何かをするっていうのは錯覚。

つまり、六師外道マッカリの宿命論ではないが、縁起という思想を素直にみれば、自分の行為は過去に条件付けられており、自分には決定権がない。だから、運命は決まっているといえる。

しかし、釈尊は宿命論を否定している。釈尊は、修行を通して、苦しみから解放されることは可能だと説く。しかし、修行をするということ自体が自らの選択を意味し、縁起と矛盾する。

よし、今日は坐禅をしよう、と思うときがある。しかしその選び方もまた、過去の経験・習慣・環境・心の状態に依存している。

坐禅(修行)しようという選択が起こるが、その思いを自分で発生させているわけではない。修行というのは、気づきからはじまる。”このままじゃだめだな”とか、”もっといい人間になろう”とか。

そして気づきは、修行を通して起こりやすくなる。ある意味、仏教というのはそういった気づきが起こりやすくなるように生活を整えようという宗教だ。

しかし何度も言うが、その気づき自体が自分で起こせるわけではない。過去の業や縁が育んだもの。気づきは起こすのではなく、”起こる”。

ということは、気づきが一生起こらないで終わる人間もいるということだ。

だから法華経では

“人身受け難し、今すでに受く。仏法会い難し、今すでに遇う”

と説く。

では宿命論との違いはなにか?思うに、未来を想定しているかどうかかもしれない。運命は決まっていると説く宿命論の考えでは、決まっているからには、今ここで何をしても意味をなさない。

しかし、仏教は分からないもの(未来)は分からないままにしておけと説く。そういうと縁起という思想のロジックだって過去の存在を前提としている。ただ、これは方便だろと思う。説明上は過去の存在がどうしてもでてきてしまうということ。

便宜上、縁起というロジックを持ち出してきているだけのこと。仏教が大事にしているのは、いま君がここで幸せになるための具体的な行動はなにか?ということ。未来がどうとか、過去がどうというのは、非現実を重要視していない。今ここというのはもはや言葉では手が出せない世界。過去もなく、未来もなく。

ただやっぱり、仏教に出会わない人もいるわけなんだなあ。

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