仏法

エアコンをかけたその先を見据える

kofukuji

五観の偈というものがある。仏教でご飯を食べる前に唱える文句であるが、要はいただきますを長くしたものだ。

その最初の文句に、「こう多少たしょうはかり 来処らいしょはかる」というものがある。意味はこのご飯ができあがるまでにどれだけの労力が割かれており、また、どこから来たのかをちゃんと考えよう、というものだ。

この文句はなんにでも当てはまる。たとえばエアコンをかけるときだ。普通、エアコンをかけて、ああ涼しい、ああ気持ちがいい、くらいにしか思わないだろう。しかしここでこのエアコンを動かす電気はどこからきて、どのように発電されたのだろうかと考えを巡らす。

当たり前だが電気は発電されている。その発電には燃料がある。燃料の石炭を燃やせば二酸化炭素は出るし、高温が放出される。エアコンにかぎらないが電気を使うということは同時に二酸化炭素と高温を地球に放出するということだ。

そう考えると、少しは遠慮して使おうという気がしないだろうか。こんな問答がある。「鍋が熱いのを知らずに触ってしまうのと、知っていて触るのとではどっちが痛い目にあうだろうか?」というものだ。

当然だが、知らなければ思いっきり握ってしまう。これと同じようになにも知らなければ、ああ涼しい、ああ気持ちいいといってエアコンをばんばん使うだろう。

しかし、その裏では二酸化炭素や高温が放出されている。もちろんお金もかかっている。

これが智慧というものだ。

記事URLをコピーしました