仏法

「苦しみを取り除きたい」→「苦しくてもいいじゃないか」という大乗仏教的転換

kofukuji

仏教に四諦という思想がある。この四諦を素直に解釈するなら、苦しみには原因があり、適切な生き方をすればそれは取り除くことができる、というものである。

しかし、この四諦を扱うときに考えなくてはならないのは、本当に苦しみが取り除けるのかということである。

たとえば以前高校で四諦の説明をしたときに学生からこんな質問があった。

「わたしはどんなに頑張っても肉親を失う悲しみを克服できるとは思えません」

当然の疑問だろう。これに大乗仏教はどう答えるのかというと「悲しくてもいいじゃないか」という捉え方をする。つまり、悲しみを避けようとするのではなく、受け止めること、そして、悲しみとともに生きることを提案する。

しかしそうなると、そもそも仏教を求めた出発点が生老病死などの苦しみを乗り越えたいという気持ちからなのに、与えられ回答が苦しみを受け止めなさいでは、仏教を求めた後と前で変わらないことになってしまう。

修行したあげく得られた結論が、苦しみを排除するのではなく受け入れることなのであれば最初から修行など不要であろう。

しかし悩んで悩んで修行して修行して、それでも修行を始めた前となにも変わらない今まで通り悩み多い自分がそこにはいるが、たくさん悩んだからこそ、一周回って悩みは解決するものでない、というところに合点がいくというか、腑に落ちるというのが仏教の示しているものなのかもしれない。

記事URLをコピーしました