修証義私見-総序-②
kofukuji
足利 祥林山 高福寺
生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。
「生を明らめ、死を明らめる」ことが仏道修行者には大事だよ、ということだが、まずこの「明らめる」というのは、漢字の通り、照らしてみる、つまり、物事をはっきりとみなさいということ。事実確認しなさいということだ。生まれるって、生きるってなんだろう、死ぬってなんだろう。それをごまかさずに真正面から受け止めること。
そして「生死なし」とあるからって、なにも不老不死になるわけではない。いや、不老不死があると思っている、願っているうちは、生死を明らかにしているとはいえない。涅槃というのは、いわゆるおさとりのことだが、生きることは大変だ、死ぬのは嫌だ、とか、一方で、おさとりはありがたいとか、そういうものがなくなったときに、初めて、生死を離れる、生死を超えていく、一筋の光が差し込んでくる。