副住職日記

『死にたい』と言うことはできるのか?

kofukuji

〜したい、という言葉は、一度経験した、もしくは、他人が経験したことのあるものに対して有効な言葉だ。

たとえばハワイに行きたいと言うならば、それはハワイに一度行ったことがあり楽しかった経験からまた行きたい、もしくな知人からハワイの楽しい土産話を聞いて、わたしも行きたいと言うこともできるだろう。

しかしもし、自分も行ったことがなく、またさらに他人も行ったことがない場所に”行きたい”と言うことはできるだろうか?

冥王星という星があるが、あなたは冥王星に行きたいと言うだろうか?もし仮にあなたが冥王星に行きたいと言うならば、そこには冥王星のことを少なからず知っていて魅力を感じ、行きたいと言うはずだ。

もし全く冥王星について全く無知であり、それでも行きたいのであればそれは”行ってみたい”ではないだろうか。なんだかわからんが冥王星に行ってみたい。そう言われれば頷けるが、なにも知らないのに冥王星に行きたいと言われたら、どこからそこに行きたい意欲が湧くのか、はなはだ疑問だ。

それと同じことが”死にたい”という言葉にも言えないだろうか。この世界に死んだことのある人間はいない。(いないので話せない)もちろん自分自身も経験していない。それなのに”死にたい”というのは非常に奇妙なことだ。しいといえば”死んでみたい”であろう。

しかし先程申し上げたように、死んでみたいということは、全く未知の領域に飛び込むことを意味する。その先どうなるか誰も知らないのだからある意味それは賭けだ。

もちろん現状がどうしようもなく、最後にそこに賭けなければならないほど追い詰められてる人が大勢いることも承知している。しかし、もしそれがギャンブルなのであれば、より成功率が高いものに賭けるべきではないだろうか。

この世は諸行無常だ。つまり物事は必ず変化するということ。それは物事に限らず、この自分自身にも適用される。そしてこの世には少なからず絶望から立ち直った人もいる。

そうであれば、全く未知の領域にベットするのではなく、この世にいながら好転することに賭けたほうが、勝率は格段に高いと言えるのではないだろうか。

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