副住職日記

牛を食べることになんの不快感もないということ

kofukuji

なぜ私たちはは、人間が食用だと思っているごく少数の限られた動物たちを食べることを嫌だと思わないのでしょうか?
嫌悪の欠如について、かなりの部分が学習によることを示す強力な証拠があります。生まれたばかりの赤ん坊はまだスキーマを持っていませんが、成長と共に構成されていきます。スキーマは高度に構築された信念のシステムを発展させます。そのシステムはどの動物が食用であるかを既定し、人間がそれらの動物を情緒的、心理的に不快になることなく食べられるようにしています。

「私たちはなぜ犬を愛し、豚を食べ、牛を身にまとうのか」 メラニー・ジョイ

下線部はこうも言い換えられないだろうか?「そのシステムはどの人間がであるかを既定し、人間がそれらの人間を情緒的、心理的に不快になることなく殺せるようにしています。」

日本のような平和な国で育つと、人が人を殺す戦争に到底理解は及ばない。しかし、実はその人が人を殺せる、そのシステムは、人間に牛を食べさせるそのシステムとなんら変わらないのではないかということ。

その牛を食べさせてしまう己のシステムに目をつぶっていては、同じシステムで動く戦争を止めることなど、一生涯無理なのではないだろうか。

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