修証義私見-総序-③
無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身すでに私にあらず、 いのちは光陰にうつされてしばらくもとどめ難し、紅顔いずくへか去りにし、たずねんとす るに蹤跡なし、つらつら観ずるところに往事のふたたびあふべからざる多し、 無常忽ちに到るときは国王大臣親暱従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり
無常だから執着しようがない。草の上の露のようなこの命はいつなくなるかわからん。「この身」とか「この命」というようなものは一切なく、あるのは時間の流れのみ。「時間」といっても1分と1時間という二つに分けた後の時間ではない。正法眼蔵恁麼(いんも)に出てくる無上菩提のことを指すとのこと。無上菩提とはなにかというと恁麼のこと。恁麼とは如是と同じ。それがそれだ!この身だって「それ」、いのちだって「それ」、時間だって「それ」。
紅顔いずくへか去りにし、たずねんとす るに蹤跡なし、
あの若かりし頃の美しさはどこへやら、訪ねてもわからないほど変わっている。そう、人間は年を取る。変わっていく。でもすべて「それ」だから変わらないとも言える。変わるとわかるのは記憶があるから。変わるけど変わらない。80歳だって100歳から見たら若い?
つらつら観ずるところに往事のふたたびあふべからざるおほし、
往事は過去のことだそうだが、過去に再び逢わないことが多い?これは過ぎ去ったことに再度遇うことはできないと理解している方がいるが、それなら「おほし(多し)」とは書かないのではないか?
無常忽ちに到るときは国王大臣親暱従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、
「無常忽ちに到るとき」というと死ぬ時と思うかもしれないが、それだけじゃなく、いつだって無常だし、いつだってわたしがわたしの人生を生きるしかない。奥さんとか旦那さんとか、財産とかがこのわたしの代わりに人生を生きてくれるわけではない。自分が自分で自分を生きる。自分勝手という意味ではないよ。