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坐禅とは完全な引きこもり

kofukuji

人間には自己領域(「引きこもるという情熱」芹沢俊介)というものがあるらしい。それはどういうものかというと世間の目を一切排除した領域、こうしなければならない、こうでなければ、ああでなければという一切の世間的な価値観がない自分だけの世界を指す。

そしてそういった世間の目から解放された状態で引きこもることで、完全な引きこもりとなり、いずれ引きこもりから帰路に向かうことになるそう。逆に引きこもり中に自分の中に内在する世間の目があると、完全な引きこもりとならずに、引きこもりが長引く。

このあたりを読んでいて、坐禅というのは完全な引きこもりをするということなのではないかと思った。坐禅をしてもなんにもならんという。集中力がつくわけでもないし、頭が良くなるわけでもない。しかし、そういった世間的な価値観から一切手を引くことで、なにかこう充足されるものがあるのかもしれない。

芹沢さんは著書の中で「自己領域という自己の胎内に戻った自己が新しい自己として誕生する」とか「生まれ直し」などと表現している。これを書いていて気付いたのだが、わたしはよくカフェで珈琲を飲みながらひとりぼーっとするのが好きだが、よくよく考えたらこれは引きこもりたくなってカフェにプチ引きこもりをしているのかもしれない。そして、人間にはそうした時間が必要だと思う。

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