あたまと現実
先日の坐禅会で、大谷翔平さんの話になりました。参禅者の方いわく、ただあたまで野球を知っている人と、実際のプレーしている人では同じ解説でも説得力が違うということでした。
これは宗教においてもとても大切なことで、あたまと現実が合っていないと、とんでもなくトンチンカンなことになってしまいかねません。
昔、ある大学の先生が仏教の研修会に講義に来られました。先生自体は坊さんではありませんでしたが、仏教学を研究しているとのことで、そのときは「布施」についての講義でした。
そのときの布施のたとえ話で、ポケットから小銭が落ちてもまったく気にせずに、たとえばそこで他の誰かが拾って自分の物にしてしまおうと、どうぞどうぞと気持ちよく与えてしまうことが布施だというようなことをおっしゃってました。(すみません、内容はうるおぼえです)
ここで布施の定義はそういうことだと断定はしませんが、そのときに、その先生が私たち僧侶に向かって、あなたたちはそれができないとダメなんですよ。とおっしゃっていて、「はあ、布施とは難行だな」と思ったことを記憶しています。
ふとここで今更ながらに思うのですが、果たしてその先生はその「布施」を実践しているのかなということです。布施というのはこうであるというのは簡単です。しかし、それを実際にやってみて、果たしてどうなのか。できるのか、できないのか。本当にその定義で正しいのか。それがひとをよりよい方向へ導くのか。
ある意味、学者さんは理論づけられればそれでいいのです。実践しなくても関係ない。しかし、坊さんであるからには、その理論を自分で実際にやってみて、できない自分に悶々とし、葛藤し、布施とはなんぞやと腹の底に落とし込んでいくのが大事なのではないでしょうか。
そこではじめて、生きた言葉として、誰かに伝えることができる。しかしそうであるならば、すべての人に、実践は不可欠なのではないかなとも思えます。