仏法

分からない。これが答え

kofukuji

つまり「一つ」ということは、合わせるという行為を必要とするのに、言葉を使って考えるという理性は、基本的に、それとは反対の分けるという本質を有しているのである。(「仏教新論」森政弘)

頭で理解する「分かる」ということは言葉を用いての行為である。あいうえをの五十音の組み合わせ以上には表現できないのである。本当の世界は分かる(分ける)以前に存在する。そうであれば、答えは分からないということである。

分かったその瞬間、すでに滑り落ちている。森氏は、この言葉でない理解を「ドスンと心の底に落ち着ける」と表現しているが、それも不要だと思う。

 

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