副住職日記

時間感覚のズレ

kofukuji

今日は足利大学での坐禅会であった。8時10分に始まり、30分間坐る。僧堂での坐禅はだいたい40分くらいだが、一般の方には長いだろうと思い、30分としている。

そして一般の方向けの坐禅会をするときに必要なのが坐禅終了の鐘を鳴らすことなのだが、そのためにはどうしても時計を見なければならない。わたしは時計を気にしながら坐るのが苦手だ。どうしても意識が時間にいってしまう。

あまり時計を見たくないので、体内の時間感覚でそろそろ時間かしらんというところで一度時計を確認するのだが、おもしろいことにいつもだいたい20分経ったところで確認している。

いつも20分のところなのだから、次はもう少し我慢すればいいところだがなぜかそうはいかない。いつもより長く坐ったからもう30分近いな?と思っても結局20分しか経っていないことがよくある。

そして気づいたのだが、もしかしたら私の体内時計と実際の時間経過がズレているのかもしれないと思った。私の中の30分が実際の20分ということだ。これは10分得しているように思えるかもしれないがあくまで坐禅の時だけ得するだけであって、普段は1.3倍速で生きてしまっているので、日中16時間(睡眠8時間として)過ごしているつもりが、10時間くらいしか感覚として体験していないことになる。

これは1.3倍せかせかと生きていると言い換えることができるかもしれない。よく走っているときに気持ちが身体より前に行ってしまって転んでしまう人がいるが、それと同じように普段の生活も少しつんのめって生きているのかもしれない。

楽しくて時間があっという間に過ぎると言うが、あっという間に時間が経つことに慣れすぎたか。あっという間に過ぎて本当にいいのか。これはまさにモモに出てくる時間ドロボウに時間を盗まれている状態かもしれない。

おそらく禅的な生き方とは、きっちり24時間生きられるように生きる生き方だと思う。

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