副住職日記

はちと神さま

kofukuji

自己もそうであるが、一つの存在は時間的にも空間的にも無限の他の存在との縁があって成立しているわけで、他なしに自分だけで独立しているのではない。一切は独立して存在し得るものはないのである。無限のダイナミックな縁の連鎖の中において、自己は無限小になって消えるのである。消えるというといかにも心細く感じられるかもしれないが、何度もくり返し述べてきたように、正反対のものが「一つ」になって、このことは同時に自己が宇宙全体に広がることでもある。この意味で本当の自己とは宇宙のことなのである。(「仏教新論」森政弘)

宇宙というとすぐに大気圏の外にある星が浮かんでいる空間を想像してしまうが、そうではなく、自分のひとつひとつの行為が様々なものに影響を及ぼしていて、一方で、さまざまなものから影響を受けて自分が成り立っている。そりゃ現在の行為が地の果てまで影響を及ぼすにはそれなりに時間がかかるだろうが、ドミノ倒しのようなもんで、つながっている以上は影響せざるを得ない。

だからこの自分というのは縁起という無限の関係性の中で仮に成立してるだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。そしてこの世界、この宇宙というのも無限の関係性で成り立っているのだから、自分が宇宙と言うこともできるし、宇宙が自分と言うこともできる。金子みすゞさんの「はちと神さま」はそれを言い表した詩なんじゃないかと思っている。

金子みすゞさんという詩人は、とても世界の構造に敏感な人だったんじゃないかな。

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はちはお花のなかに
お花はお庭のなかに

お庭は土塀のなかに
土塀は町のなかに

町は日本のなかに
日本は世界のなかに
世界は神さまのなかに

そうして、そうして、神さまは
小ちゃなはちのなかに

 

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