タイパと時間は反比例する
最近、コスパならぬタイパという言葉を聞くようになった。タイパとはタイムパフォーマンスのことを言うそうだが、つまり、いかに時間を節約するかという話だ。
この前、足利大学の先生と話していて、朝の通勤時間に車を運転しながら朝ご飯を食べてオーディオブック(ラジオのよつなもの)を聞いているという話が出た。
かっこよく言えばマルチタスクというものか。なぜ人が同時進行で複数のことを実行しようとするかというとはそれは時間の節約のためであるが、それは時間を節約しているようで実は時間が減っていると言ったらどうだろうか。
いやいや、本来運転する時間で朝ご飯を食べてしまえば、勤務先についてからもしくは出勤前に朝ご飯を食べる時間が節約されているのだから時間は増えているはずだろうと。
しかしこうは考えられないだろうか。たしかに勤務先もしくは家での時間は増えているかもしれないが、車の中での時間が死んでいないだろうか?
これには人生の充実とはなにか、ということが関係している。タイパを上げたい人は同時にたくさんのことをすることで満足しているつもりだろうが、それは本当に充実した時間となるのだろうか。
ああ、今日もたくさんのことをやったなという「たくさんやった」という概念を喜んでいはしないだろうか。よくいう絵に描いた餅というやつだ。それは絵だからいくら書いてもお腹は膨れない。大事なのはお腹が膨れることだ。お腹が膨れるとは、その時間をたしかに生きることだ。
その時間をたしかに生きるためには、頭の中をいっぱいにしてはダメだ。あれもやってこれもやってと頭の中をいっぱいにすることはある意味寝ているようなものだ。寝ているときは時間があっという間に過ぎる。あれこれやっているときも時間の流れが早いはずだ。本来あるべき時間の流れを生きれないのだからそれは時間が減っているようなものだろう。
だいたいタイパを重視する人は常にタイパを重視しているものだから、増えた時間もタイパに注ぐであろうから、ずっと時間は繰り越され続けるともいえる。その繰り越した時間をいつ使うのか?
無常迅速 生死事大
副