不幸なのは幸せのせい
kofukuji
足利 祥林山 高福寺
わたしは小学生の頃、今はなきイトマンスイミングスクールに通っていた。そこではプールに向かう前に、水着に着替えて一旦待合室に全員が集合するという時間があった。
そしてある日わたしはその待合室での時間に、靴下を脱ぎわすれていたことがあった。水泳帽に水着に靴下。はたから見たらさぞ奇妙な恰好だろう。子どもというのは残酷なものである。案の定、年上の二人組に目をつけられた。靴下を履いていることを馬鹿にされ、大変傷ついたわたしはそそくさと更衣室に向かったのを覚えている。
さて、この場合に悪いのはどちらか?言うまでもなく嘲笑した二人組ではなかろうか。靴下を履いていることを優しく教えてあげればいいところ、ただ嘲笑ったのだから。しかしじゃあなぜ私は馬鹿にされたのか。もちろん、裸足でいるべきところにひとりだけ靴下を履いていたからだ。
この「靴下を履いていた」という事実を仏教では私の側からみると因といい、年上の二人組の側みると縁という。縁とは条件とも言うが、年上の二人組に嘲笑させる条件を与えたということだ。
つまり、善悪の話でいうと二人組が悪いのだが、原因があるかどうかで言うと、私にも原因があるのだ。きっかけとも言っていいかもしれない。しかし世間では「原因がある=悪とか責任がある」というイメージがあるので、「いじめられた側に原因がある」というと、いじめられた人を非難する意味合いになってしまう。
しかしいじめられた側は悪くないにしても、なぜ自分がいじめられてしまったか、そのきっかけ(仏教的な因)を知ることも大切なのではないかと思ったりする。
副