線香の灰が落ちる音
kofukuji
足利 祥林山 高福寺
坐禅も同じだと思うのです。坐禅というなにもしないということのためには、内面的に満たされていないといけないのです。学校の授業で坐禅をすると、居ても立っても居られないという学生がいます。苦しくなるという学生もいます。おそらくそれは「こんな無意味な時間を過ごしている場合じゃない!早くなにか為になることをやらなくては!」という心の叫びなのだと思います。内的に充実していない理由はさまざまだと思います。普段から外的な刺激で生活しているというのもあるでしょうし、小さい頃の育てられ方もおおいに関係していると思います。
つまり、なぜ坐禅をするかではなく、なぜ坐禅ができるかという問い方が適切なのだと思うのです。内的に充実している人は外部に求める必要がないので、なにもしないでいられるのです。でも本来は皆そうなのだと思います。本当はみんな満たされていて、それに気づいていないだけなのではないでしょうか。だから、しいて坐禅をする理由を挙げるとすれば、本来はわたしたちは今ここで満たされているという事実に気づくため、もしくは、満たされている、充実している状態の練習ともいえるでしょうか。
副