落ち葉はいつから嫌われ者になったのか?

kofukuji

 秋の公園で足を止めると、地面いっぱいに広がる落ち葉に目を奪われる。黄や紅に染まった葉は、それだけで一幅の絵のようだ。しかし、その美しさをよそに、傍らには「清掃中」の立て札が立ち、ブロワーの音が響いている。ふと、私は思う。人間はいつから落ち葉を嫌うようになったのだろうか。

 かつて落ち葉は、私たちの暮らしと密接に結びついていた。農村では焚き付けや堆肥として活用され、落ち葉掃きは季節の営みであり、自然との対話でもあった。江戸の町では、落ち葉を拾い集めて農村に売る者さえいたという。それは、「落ち葉=資源」という価値観が当たり前だった時代の話だ。

 だが、時代は変わった。高度経済成長期、アスファルトとコンクリートが都市を覆い尽くし、側溝や排水路といった人工のインフラが張り巡らされた。土に還るはずの葉は、滑って危ない、詰まって困る、腐って臭う、と「邪魔者」になってしまった。さらに、煙害や防火の観点から焚き火が禁じられ、落ち葉は「使えないもの」として、ゴミのカテゴリへと格下げされた。

 この価値観の転換は、文学や教育の現場にも及んでいる。俳句や短歌では、落ち葉は変わらず情緒の象徴として詠まれるものの、日常の中では「きれいに掃除しよう」「火遊びはダメ」といった道徳的文脈で落ち葉が語られることが多くなった。自然は、感動の対象ではなく、管理の対象になったのだ。

 この変化は、神社や寺院の風景にも静かに表れている。もともと寺の掃除は、禅においては修行であり、神道においては穢れを祓う神聖な行為だった。そこでは落ち葉を掃くことも、自然とともにある季節の巡りを受け止め、静かに整える所作だったはずだ。

 しかし、寺社は観光地や都市空間の一部となり、景観としての「整い」が強く求められるようになる。落ち葉をそのままにしておくことは、「管理が行き届いていない」と見なされ、清掃の頻度が上がった。修行や祓いとしての掃除が、「見栄え」や「美観維持」のための作業へとすり替わっていったのだ。

 だが、それで本当にいいのだろうか。落ち葉を見て「散らかっている」と感じる私たちの感性は、ある意味で、自然から切り離された都市生活の証ではないか。もっと言えば、「無駄」「不要」「処理すべきもの」と見なすその目線こそが、自然へのまなざしの変質を象徴している。

 かさり、かさりと葉が舞う音に耳を澄ませると、何かが囁いている気がする。自然を嫌ったのではなく、自然と暮らす感覚を忘れてしまったのではないかと。

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